B.J.パーマーのお話

B.Jは1882年9月14日、カイロプラクティックの創始者であるD.D.パーマー氏(以下:D.D)の息子として誕生しました。当時、D.Dはまだカイロプラクティックを創始しておらず、パーマー一家はD.Dの運営する食料品店の裏に住んでいました。

 

その後、D.Dは1895年にカイロプラクティックを創始しますが、当初、D.Dはカイロプラクティックの原理を他人に盗まれたくないため秘密にしようとしました。しかし、B.JがD.Dにカイロプラクティックを世間に広めようと説得したと言われています。

 

そして、D.Dはアイオワ州ダベンポートにカイロプラクティックの学校(パーマースクール)を設立しました。数年後、医師団からの嫌がらせでD.Dが逮捕されたことを機にB.Jがパーマー・スクールを引き継ぎます。

 

ここからB.Jの本領が発揮されていきます。当初、パーマースクールの卒業生は数十名規模だったのがB.Jの学校改革により最盛期は生徒数が1000人規模にまでなったと言われています。また、B.Jは実業家としても活躍します。

 

B.Jはラジオ局を買収して宣伝活動を行います。当時はテレビがそこまで普及していないためラジオや新聞でカイロプラクティックを全米中に宣伝しました。そのかいあってカイロプラクティックは瞬く間に有名になりました。

 

また、B.Jは医師団からカイロプラクティックは科学的根拠のないインチキ療法だという批判を覆すために、当時の最先端であるX線(レントゲン)や皮膚温度分析機などを用いてカイロプラクティックの臨床研究を行いました。

 

そして、B.Jは数々の臨床経験から一つの答えに辿り着きます。それは、上部頸椎の重要性です。彼はH.I.O(ホールインワン)テクニックを開発します。H.I.Oテクニックは上部頸椎をターグル・リコイル・テクニックという手技を用いてアジャストメントする理論です。

 

H.I.Oテクニックは治療時間が数十秒で終わるため、B.Jは一日に数十人規模の患者さんを診ていたと言われています。一説によるとB.Jは生涯において数十万回以上のアジャストメントをしたと言われています。

 

話は変わりますが、B.Jは自身の学校スタッフの女性と結婚し息子が生まれます。彼の息子は父親のダニエル・デビット・パーマーの名前を前後したデビット・ダニエル・パーマー(D.D.パーマー)と命名されます(二人ともD.Dの愛称です)。

 

孫のD.DはB.Jの死後、パーマー・スクールを引き継ぎ後世のカイロプラクティック界の発展に尽力しました。しかし、孫のD.Dも父親であるB.Jとはそりが合わなかったといいます。

 

※B.Jの妻マーベル・ヒース・パーマーはパーマースクールのスタッフでもあり、パーマースクールでカイロを学んだカイロプラクティックのファーストレディとも言われています。

 

また、B.J一家は1920年代のトレンドだった世界旅行を行い、アジアなどの異国の文化に触れあいます。のちにB.Jはその時の様子を記した'Round the World with BJ' という本を出版しています。

 

下の動画はB.Jによるデモンストレーション動画であります。